楠木 正行     
◇楠木 正行(くすのき まさつら)の墓
 正平3年(1348年)四条畷の戦いに敗れた 楠木正成の嫡男(小楠公)
楠木左金吾正行:1326年生まれ、1348年2月4日(貞和4・正平3年正月5日)没。
南北朝時代、南朝方の柱石として活躍。
1336(建武3・延元元)年
湊川の戦いで父が戦死し、父の首は六条河原にさらされた後、
尊氏の配慮で河内の妻子の元に送られる。当時11歳の正行は父の首を見て自害しようとしたが、
 母に涙ながらに諫められて思いとどまっている。
1347年 出兵 摂津で山名時氏・細川顕氏らを破る
1348年2月4日(貞和4・正平3年正月5日)四条畷の戦いで、
高師直・高師泰兄弟と戦い敗北。弟・楠木正時と刺し違えて死亡。
出陣前、如意輪堂の壁に「梓弓の歌」を記した
家の子郎党ともに中甑に落ち、金吾山に城塞を構え中甑で死没したと伝えられています。
その子孫の和田家に、桜井の駅の小刀や正茂の「非理法権天」の旗印、緋威(ひおどし)の鎧などが
伝えられていたと言いますが、多くは島津氏に取り上げられたそうです。