以後景時を重臣として用い、その子:梶原源太景季も重用されました。 しかし、頼朝の死後、御家人の反発を招き、北条時政らと幕政を合議する任にあったが、 正治元年(西暦1199年)謀反人とされて追放されました。一族は上洛しようとしたが、 駿河の狐崎で諸将の追撃を受け、景時はここに敗死した。一族景時がが先年まで守護の任にあった 播磨に逃れ、さらに舟に乗って頼朝縁故の島津氏が守護の任にあった薩摩に下り、 甑島へ着いた。景季も狐崎に戦死したと伝えられるが、甑島に逃れて再起をうかがう、 病に倒れ正治2年に没したと伝えられています。享年39歳。 |