【島名の由来】
 古老は、太陽が海から出て海に入るこの島を古くは「五色島(ごしきじま)」とよんだと伝えるが、江戸時代の「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」には、「上甑に東西へ潮の通ふ海門(かいもん)あり、串瀬戸(くしのせど)といふ。そのうちに、甑形(米を蒸すせいろの形)の巨岩あり、島民これを甑島大明神(こしきじまだいみょうじん)と称す。甑島の名はこれによりて得たりとぞ。」とある。

 「甑(こしき)」の名が日本の歴史に記されたのは古く、「続日本紀(しょくにほんぎ:797年撰)」の神護景雲(じんごけいうん)三年(769年)11月の条に「天皇(称徳天皇:しょうとくてんのう)臨軒、薩摩国小六位、甑隼人麻比古(こしきはやとまひこ)、授外従五位下」が初見である。「古事記」や日本書紀」によれば、南九州の隼人は海幸彦(うみさちひこ:火照尊(ほでりのみこと))の子孫で、弟神山幸彦(やまさちひこ:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))との争いに敗れたため、山幸彦の子孫である大和朝廷の宮門を警護することになったという。八世紀の中ごろ、薩摩隼人・大隅隼人(おおすみはやと)・阿多隼人(あたはやと)などの小王と共に、甑隼人の小王麻比古も、この小さい島から、宮門警護のために僅かばかりの兵を率い、はるばる奈良の都まで上がって勤番し、その功によって、他の隼人の小王らと叙位(じょい)されたものである。・・・「外従五位下」という位は、けして低いくらいではない。

 「甑島」の名は、「続日本紀」の宝亀(ほうき)九年(778年)11月の条に初めて見え、「倭妙類じゅ抄(わみょうるいじゅしょう):和名抄:わみょうしょう):934年頃選」には、「甑島:古之木之万(こしきしま)」と読み方が注記されている。また古書には、「古敷島」「小敷島」「古志岐島」などと書かれ、歌人は「沖津島」とも詠んでいる。


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